読書日記

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不死身の特攻兵ー佐々木友次

 

 不死身の特攻兵ー軍神はなぜ上官に反抗したか 

     鴻上尚史    講談社現代新書

 

 

 1944年11月の陸軍第回1回特攻作戦から9回出撃し、陸軍参謀に「必ず死んでこい」と言われながら、命令に背き生還を果たした佐々木友次という特攻兵がいました。

 この本は、著者がどうしても、この人の生涯を、たくさんの日本人に知ってほしくて書いた本です。

 佐々木友次さんは、2016年2月に92才で亡くなりました。この本は、著者の2015年10月から11月までの4回のインタビューが、この本の柱になっています。

生い立ち

 佐々木友次は北海道札幌市に隣接する石狩郡当別村に1923年6月27日生まれました。農家の6男で、兄弟は7男5女の12人でした。尋常小学校に6年、高等小学校に2年通いました。

 子供の頃、佐々木家の近くの小さな山の上を新聞社の定期便の飛行機が、毎日、飛んでいました。佐々木友次は小学校に入る前から、飛行機が大好きで、毎日、大空を飛ぶ飛行機を追いかけていました。当別村の大空を見上げるたびに、飛行機に乗りたい、早く乗りたいと思っていました。

 小学校を卒業した佐々木友次は家業の農家を手伝いながら、17才の時、「逓信省航空局仙台地方航空機乗員養成所」の試験に合格します。この養成所は、逓信省の管轄ではありましたが、実際は陸軍の予備役をつくる場所でした。

 軍隊式のしごきで、連日の体罰が続きました。理由があってもなくても、精神注入棒による尻叩き、生徒達による交互の対抗ビンタなどが行われました。

 佐々木友次は、横暴な上官の制裁に抗議して2日間、絶食した事も有りました。ここでの生活が1年間で、飛行機に50時間ほど乗りました。

 「逓信省航空局仙台地方航空機乗員養成所」を卒業した、1年後の1943年に、茨城県の鉾田陸軍飛行学校に配属されました。この飛行学校では陸軍の爆撃機である「九九式双発軽爆撃機」(略称 九九双軽)に乗りました。

 佐々木友次は九九双軽に乗り、毎日、急降下爆撃の訓練を続けました。身長160センチ足らず、幼い顔をしている20才の佐々木友次は、それとは真逆の大胆で攻撃的な操縦をして、鉾田飛行場でも、評判の腕前となりました。

岩本益臣大尉

  ここで、のちに陸軍第1回特攻隊(万朶隊)の隊長に指名された岩本大尉に出会うことになります。佐々木友次が、特攻で体当たりせずに9回出撃して生還できたのも、岩本大尉の考えによるところがあります。

 佐々木友次は岩本大尉が好きでした。大尉と伍長(佐々木友次)が、軍隊で親しく会話することはありません。陸軍士官学校を出たエリートと下士官の一番下、伍長とは雲泥の差があります。それが軍隊の階級であり現実です。

 岩本大尉が自分の操縦技術を信頼していることを佐々木友次は感じていました。陸軍第1回特攻隊結成時に、「佐々木、一緒に行こう」と声をかけてもらったときには、佐々木友次は感激しました。将校が伍長に声をかけるなど、めったにないことだからです。

 また、岩本大尉は理不尽な命令を出すことも、強引な鉄拳制裁を加えることもないでした。それが佐々木友次が岩本大尉が好きだった理由でもありました。

 陸軍第1回特攻の出撃の何日か前に、岩本大尉は操縦者を航空寮の一室に集合させ、体あたり機を、独断で上の者の許可なしに、爆弾を投下できないのを投下できるように改装した事をはなしました。

 そして、「体あたり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体あたりで、撃沈できる公算は少ない。こんな飛行機や戦術を考えたやつは、航空本部か参謀本部か知らんが、航空の実際を知らないか、よくよく思慮の足らんやつだ」と言い、さらに、明らかに命令違反で、軍隊では死刑に相当する「出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」と発言します。

 岩本大尉は陸軍第1回特攻出撃の数日前に、儀式好きの司令官が宴会をするのでマニラに来るように命令を受け、現地に向かう途中に米軍のグラマン戦闘機に襲われて墜落し戦死します。

第一回出撃

 1944年11月12日に、佐々木友次に陸軍第1回特攻の出撃命令が出ました。定員4名の九九双軽に一人で乗り込み、援護戦闘機の”隼”とともに、カローカン飛行場を飛び立ちました。岩本大尉のためにも、爆弾を敵艦船に当てて、生きて帰るつもりでした。

 レイテ湾を飛行中に、部隊を輸送、上陸させる揚陸船を見つけました。それをめがけて爆弾を投下しました。早く逃げないと敵に撃たれるので、命中したか確認できないまま現場を離れて、岩本大尉に教えて頂いたミンダナオ島のカガヤン飛行場に不時着しました。

 1994年(昭和19年)11月12日の午後、戦果の発表がマニラの軍司令部で行われました。万だ隊の戦果は「戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈」、佐々木友次の四番機は、「戦艦に向かって矢の如く体当たりを敢行して撃沈」と発表されました。

 大本営は、戦果を誇張して発表し、佐々木友次は戦艦を沈めて殉職した軍神として祭り上げられました。

 佐々木友次の生まれ故郷、石狩郡当別村では大本営発表のラジオ放送を聞いて大騒ぎになっていました。緊急に招集された村会議は万歳三唱し、黙禱し、「神鷲の偉業を顕彰するための委員会」設置を可決しました。生家には、村の人々が雪を踏み、馬そりに乗って、慰問に来ました。

 第四航空軍に呼ばれた佐々木友次は「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく肝に命じて、次の攻撃では本当に戦艦を沈めてもらいたい」と参謀から言われました。

 上聞、つまり、天皇に報告したことは、絶対に訂正できない。天皇に噓の報告をしたことになれば、司令官の責任問題になります。だから、分かっているな、という暗黙の命令でした。「本当に戦艦を沈めてもらいたい」は、「本当に体当たりして死んでもらいたい」を意味しました。

第ニ回出撃

  11月15日に、2回目の出撃が行われました。戦果確認の百式司偵機が離陸し、万だ隊4機、直掩の隼8機が続きました。

 佐々木友次は、空中集合する時間になっても、僚機(仲間の飛行機)を見つけることができませんでした。そして、佐々木友次は空中集合を締め、着陸しました。

 大本営は、第四航空軍司令部の報告を受けて、佐々木友次を特攻戦死として、二階級特進させる予定になっていました。しかしながら、司令部は2回目の特攻の失敗を受けて、やむなく、佐々木友次の生還を明らかにし、感状(栄誉を讃える文章)と特進の手続きを取り消すことにしました。

 佐々木友次の故郷の当別村では、慰問の人が絶えず、駅から佐々木家まで「軍神の家」として道しるべが立てられました。さらに、佐々木友次の幼い頃の帽子やかすりの着物などを納める忠霊堂の建設や伝記編集が計画されました。

 佐々木友次の母校の小学校の生徒達は、佐々木家を集団で拝礼し、家の前で「海行かば」を歌いました。

第三回出撃

 11月24日に、三度目の出撃の特攻命令を奥原伍長と佐々木友次は受けました。

25日、正午近く、猿渡参謀長は、「佐々木はすでに、二階級特進の手続きをした。その上、天皇陛下にも体当たりを申し上げてある。軍人としては、これにすぐる名誉はない。今日こそは必ず体当たりをしてこい。必ず帰ってきてならんぞ」叱りつけるように言ました。

 この日の出撃は、昼間だったので、直掩機の隊長、作見中尉が「それにしても、

嫌な時間だな。こんなあぶない時間に出撃させるなんて乱暴だな」と青空を見上げました。白昼はレイテ湾に飛ぶことはもちろん、空襲による危険も多かったのです。

 佐々木友次が操縦席に着き、エンジンを回し点検しようとした時、天蓋が激しく

叩かれました。整備員が上空を指し、大声で叫んでいました。

 見上げれば、黒い編隊の機影が飛行場に向かっていました。佐々木友次はスイッ

チを切り機体の外に飛び出しました。奥原伍長とともに走りながら、目は上空の

機影から離せませんでした。

 上空1000メートルから、アメリカ艦載機は爆弾を落としました。佐々木友次達は

滑走路脇に立つ兵舎の前の溝に飛び込みました。

 その瞬間、猛烈な爆発が起こりました。熱気と振動と爆風が佐々木友次の体を襲いました。その上に、土砂が水のように流れ落ちました。その後、佐々木友次は必死で起き上がり、滑走路から宿舎の方向に走りました。

 宿舎に戻ると奥原伍長はいませんでした。滑走路を探しに歩くと、飛行服の袖と白い手が土の中から突き出しているのが見えました。

 慌てて掘り起こすと、すでに奥原伍長は死んでいました。佐々木友次が倒れ込んだ場所から3メートルほどの所でした。その短い距離が、二人の生死を分けました。

第四回出撃

 空襲からの3日後の11月28日、頭に包帯を巻いた佐々木友次に、ただ一機での出撃命令が出ました。カローカン飛行場では、佐々木友次に同情が集まっていました。佐々木友次を殺すために、無理に出撃させていると思う人が多かったからでした。

 佐々木友次が本部で天気図をみると、レイテ湾は雲が多いでした。出撃には悪い条件です。「レイテ島は今や北東貿易風が吹きつのり、本格的雨季に入る」と気象情報が添えられていました。本格的雨季は、作戦を困難にすることは明白でした。

 滑走路脇の指揮所に行くと、第四航空軍から特別に来ていた佐藤勝雄作戦参謀がいて話をしました。「佐々木伍長に期待するのは、敵艦撃沈の大戦果を爆撃でなく、体当たり攻撃によってあげることである。佐々木伍長は、ただ敵艦を撃沈すればよいと考えているが、それは考え違いである。爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりならば、確実に撃沈できる。この点、佐々木伍長にも、多少誤解があったようだ。今度の攻撃には、必ず体当たりで確実に戦果を上げてもらいたい」

 天皇に上聞した以上、佐々木友次は生きていたら困る。上層部の意図ははっきりしていました。

佐々木友次は答えました。「私は必中攻撃でも死ななくていいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、命中させます」

  佐々木友次は6機の直掩隊と共に、ただ一機の特攻隊として出発しました。天気図では雲量が多かったが、レイテ島に接近すると快晴でした。四方の空には積乱雲が壁のように続いていました。

 レイテ湾が前方に見えてきました。先頭を飛んでいた直掩隊の隊長機が、急に旋回してやってきた方角に向いた。佐々木友次は、敵かと警戒して四方の空を見回すしたが、アメリカ軍機は見えませんでした。隊長機が方向を変えたので、僚機もそれぞれ旋回しました。そして、理由は分からないが、佐々木友次も続きました。なぜなら、隊長機が引き返すのだから、佐々木友次が単独でレイテ湾に突進することはないからでした。

 カローカン飛行場に戻った後、佐々木友次は直掩隊の下士官に、なぜ引き返したのか聞きました。すると、彼らもなぜ引き返したかは分からないと答えました。やがて、直掩隊の隊長が佐々木友次に同情し、わざわざ殺すことはないと、適当な場所まで飛んで引き返したのだと分かりました。参謀長へは、レイテ湾上空は気象情報通り雲量が多く敵艦船を発見できなかったと報告しました。

 佐々木友次の四回目の出撃は、こうして終わりました。

 

 

内容紹介

太平洋戦争の末期に実施された”特別攻撃隊”。戦死を前提とする攻撃によって、若者たちが命を落としていった。
だが、陸軍第一回の特攻から計9回の出撃をし、9回生還した特攻兵がいた。その特攻兵、佐々木友次氏は、戦後の日本を生き抜き2016年2月に亡くなった。
鴻上尚史氏が生前の佐々木氏本人へインタビュー。
飛行機がただ好きだった男が、なぜ、軍では絶対である上官の命令に背き、命の尊厳を守りぬけたのか。

我々も同じ状況になったとき、佐々木氏と同じことができるだろうか。
戦後72年。実は本質的には日本社会は変わっていないのではないか。
本当に特攻は志願だったのか、そして、なぜあんなにも賛美されたのか。
命を消費する日本型組織から、一人の人間として抜け出す強さの源に迫る。

著者紹介

1958年愛媛県生まれ。早稲田大学法学部卒業。作家・演出家・映画監督。大学在学中の1981年、劇団「第三舞台」を旗揚げする。'87年『朝日のような夕日をつれて'87』で紀伊國屋演劇賞団体賞、’94年『スナフキンの手紙』で岸田國士戯曲賞を受賞。2008年に旗揚げした「虚構の劇団」の旗揚げ三部作戯曲集「グローブ・ジャングル」では、第61回読売文学賞戯曲・シナリオ賞を受賞した。著書に『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』『八月の犬は二度吠える』(ともに講談社文庫)、『青空に飛ぶ』、『不死身の特攻兵』(いずれも講談社)などがある。

目次

第1章  帰ってきた特攻兵
      振武寮という地獄/第一回の特攻隊/札幌の病院で
第2章  戦争のリアル
    艦船を沈める難しさ/万朶隊の結成/「臆病者」/無能なリーダー
第3章  2015年のインタビュー
    死なない強さ/生き残った者として/佐々木さんを支えたもの
第4章  特攻の実像
    守られたエリート/精神主義の末路/日本人の性質と特攻 他