ノモンハン戦争
モンゴルと満洲国
本書は、モンゴルの民族問題とソ連という視点から、ノモンハン戦争がなぜ起きたのかを解き明かしたものです。なお、田中克彦およびボルジギン・フスレ編『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013刊)では、ノモンハン戦争は第2次大戦のきっかけとなった重大事件であることが最近の多面的研究で明らかされています。
ノモンハン「戦争」は、日本では「事件」と呼ばれることが多いです。この点について著者は、双方が大量の戦車と航空機を出動させ、それぞれの正規軍に約2万人もの戦傷者と行方不明者を出したのであるから明らかに戦争であると指摘しています(第1章)。確かに宣戦布告なしに戦われましたが、日本側が「事件」と呼ぶ背景には、天皇の大命なしに行われた違法行為であり、かつ日本が実質的に大敗した事実を隠蔽できる便利な言葉であるからです。
本書が明らかにしたモンゴル民族の視点からのノモンハン戦争の見方が興味深いです。当時は、モンゴル人民共和国(外モンゴル)はソ連の、一方満洲国(内モンゴル)は日本の傀儡国家でした。問題は陸続きの草原に住むモンゴル族が外・内モンゴルに分断されていたことです。
モンゴル族の民族統一の動きはソ連・日本両国から大いに警戒されていました。特にソ連は早い時期から日本の動きを警戒していて、対独戦争の開始時期と睨み合わせながら周到に戦争の準備を進めていました。その中で、モンゴル人民共和国の政治家や軍人の中に少しでもモンゴル族統一運動の気配があれば日本のスパイと見做してモスクワに連行し、ほとんどが粛清されたといいます。
ノモンハン戦争の前後も含めると、膨大な数のモンゴル人たちがソ連によって粛清されました。このような民族的な背景の中で、モンゴル人民共和国のモンゴル族はソ連軍の一員として、一方満洲国のモンゴル族は日本軍の一員として、同胞が殺し合う悲劇に陥ったのです。ソ連がモンゴル人民共和国を従えて、周到に日本を警戒している中で、日本の関東軍が無警戒に国境を侵入し、戦争が勃発したのでした。
日本側から見たノモンハン戦争については多くの本が書かれてい。たとえば、半藤一利著『ノモンハンの夏』(文藝春秋)では、国境についての関東軍の認識不足と現地軍の指揮官や参謀(辻政信少佐)の暴走(功を焦り、また相手を甘く見るという致命的な誤り)により多くの将兵を死なせたことを時系列で詳しく記述しています。また、驚くべきことは、軍首脳の失敗の発覚を恐れた辻らは、辛うじて生き残った多数の部隊長に対して自決を強要したのでした。
ノモンハン戦争を端緒とした第二次世界大戦は、モンゴル族に過酷な運命をもたらしました。モンゴル人民共和国は戦後もソ連の圧政に耐え、ソ連が崩壊した1991年にようやくソ連の軛から逃れ、はれて独立国となりました。一方、内モンゴルは満洲国の崩壊後、中国の一部となり、漢族による遊牧地の激しい農地化に曝されました。さらに、文化大革命(1966-76年)においては、多くのモンゴル人知識層が不条理な理由で粛清されました。内モンゴルにおける漢族によるモンゴル族圧政・差別の状況については、同地出身の楊海英氏による『墓標なき草原 上・下-内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店)など、同氏の多くの著書に綴られています。
本書はノモンハン戦争を東アジア史全体の中で捉え直し、単に関東軍による無謀な戦争というだけでなく、今日まで続くモンゴル族の分断の悲劇のきっかけを作ったという点を改めて指摘した点で重要です。さらに、ノモンハン戦争は、その無謀さにおいて太平洋戦争における帝国陸軍の大敗北を予測するものだったといえます。
内容紹介(amazonより)
一九三九年のノモンハン戦争は、かいらい国家満洲国とモンゴル人民共和国の国境をめぐる悲惨な戦闘の後、双方それぞれに二万人の犠牲をはらって終結した。誰のため、何のために?第二次大戦後、満洲国は消滅して中国東北部となり、モンゴルはソ連の崩壊とともに独立をまっとうした。現在につながる民族と国家の問題に迫った最新の研究。
著者紹介
田中 克彦(たなか・かつひこ)
1934年兵庫県に生まれる。1963年一橋大学大学院社会学研究科修了。現在、一橋大学名誉教授。専攻は言語学、モンゴル学。
目次
第1章 「事件」か、「戦争」か
第2章 満洲国の国境とホロンボイル
第3章 ハルハ廟事件からマンチューリ会議まで
第4章 抵抗するモンゴルの首脳たち
第5章 受難のブリヤート人―汎モンゴル主義者
第6章 汎モンゴル主義
第7章 ソ連、モンゴルからの満洲国への脱出者
第8章 戦場の兵士たち
第9章 チョイバルサンの夢―果たせぬ独立
第10章 誰がこの戦争を望んだか
参考図書