下 論語篇
鹿島 茂 文春文庫
本書の主人公渋沢栄一は、サン・シモン主義の信奉者であり、日本の近代資本主義社会を定着させた孤高の人です。
本書を読み終え、渋沢の偉大さを実感したのは、彼が、自己の最大利益だけを追求する市場原理主義者ではなかったということです。
政治家となる誘いを頑なに固辞し、あくまで経済人として活躍し、引退後は福祉などにも多くの業績を収めた人でした。
天保11年(1840年)に、生を受けた渋沢栄一は、幕末激動の時代を生き抜き、明治、大正、昭和、という時代には、日本の自由主義と資本主義の礎を築き、日本を近代国家へと導いた偉大な業績を成し遂げ、昭和6年(1933年)に、その生涯を閉じました。
渋沢は、生涯市井の一経済人として活躍してきた人であったが、国家大事と思うところがある時には必ず政官にたいして苦言を呈していた。
たとえば対中、対米政策については、満州事変勃発よりはるか以前より中米との対立を避け、産業面で協力していく国策を提言していた。
渋沢が賛意をもって強く支持した南満州鉄道建設におけるアメリカ資本ハリマンの経営を容認していたら、満州事変も日中戦争も起きることもなかっただろうと思います。
渋沢は、満州が日本にとっての躓石(ちせき)となることを予想し、日米戦争への道をなんとしても断ち切りたいと願ったのです。(P133)
渋沢は、昭和4年12月に、昭和天皇から宮中賜餐に招かれた席上で自身の過ぎし日の思い出を披露したことを、四男の秀雄の『父 渋沢栄一』の中に書き残しているから、その内容の一部を引用します。
「・・・むかしフランスにいったとき、ナポレオン三世が博覧会場で大演説をしたこと。そのナポレオンも二年後にはドイツに大敗し、そのドイツも第一次大戦で連合軍に打ちのめされたことなど述懐して、一国敗亡の訴因は外敵よりも国内にあり、という考えを言上したそうである。それからわずか八年目に、日本は自ら進んで墓穴をほりはじめた。・・・」(P446)
このあと著者は、八年目といえば昭和十二年に勃発した日中戦争のこと。この戦争は陸軍と海軍のメンツ争いで深みにはまったようなものだから、まさに「一国敗亡の素因は外敵より国内にあり」である。ただ秀雄がいうように、「昭和六年に世を去った父は、日本が思い上がりの代償として受けた無条件降伏を知らないですんだ」だけ幸いだったかもしれないと、記述しています。(P446)
秀雄氏の父の思い出の話に「お読みあげ」という挿話があります。
父親に本などを読んで聞かせるという秀雄の幼少のころからの習慣があり、秀雄が一校、東大と進む頃にはさたやみとなったが、渋沢が九十代になったころ中里介山の『大菩薩峠』を朗読したときには、京都の場面で近藤勇や土方歳三が登場すると、彼らには実際に会ったことがあると言って、しきりに思い出話に花を咲かせたそうです。
栄一が七十代のころには、漱石の『吾輩は猫である』など面白がらず『虞美人草』のほうに興味をもったそうですが、晩年になってから試に『吾輩は猫である』を読んでみたら、たいへんおもしろがって、「ようもそう巧みに書きあらわせるものね。やはり薀蓄のある人はちがうよ」と感心しながら、文中に出てくる外国人とギリシャの話など熱心に質問してきたそうです。
渋沢は、株式取引所の設立に奔走したが、自身は生涯投機事業に手を出しませんでした。
本書上巻の「まえがき」で、まだ日本中がミニ・バブルで沸いていたころ六本木ヒルズに住む若きリッチマン、リッチウーマンを集めた座談会の司会を頼まれた著者の鹿島氏が、集まった人たちに話したことを下に引用します。
・・・「おおいに稼ぎ、おおいに使うのはまことに結構。ぼくはそうしたことを否定しない。ただ、君たちがこれからもっと稼いで、もっと使いたいと願うなら、どこかでモラルを尊重しなければならなくなる。モラルというものをあまり馬鹿にしすぎると、モラルが機嫌を損ねて、思わぬ逆襲をしてくることがある。どこまでも自己利益の最大化で行こうとをするとかならず破綻する。それが資本主義の最大の教訓なのだからね」・・・
そのあとに、会場からブーイングを浴びてしまったと、著者が慨嘆していたことが印象的です。
本書を読み終え、渋沢が経済活動した時代と比較することは出来ないかもしれないが、今、世界中で進行している市場原理主義を標榜する金融市場を俯瞰すると、アダム・スミスの「見えざる手」が機能し、バブル崩壊の再現が近いのではないかと危惧してしまいます。
著者鹿島茂氏が、十八年という歳月を経てやっと刊行できた本書は、氏ならではの視点で捉えた渋沢栄一という偉大な人物像を見事に描きり、資料的な意味でも貴重な著作となっています。
内容紹介
あらゆる日本の近代産業の創設にかかわりながらも、後半生を社会貢献に捧げた生涯。日本人に資本主義のあり方を問い直す1冊です。
大蔵省を退官後、次々と事業を拡大していった渋沢は五百を超える企業の設立にかかわり、近代日本の礎を築く。しかし、発展の一方で、さまざまな社会問題が持ち上がってきていた。その実情にいちはやく注目していた渋沢は、七十七歳を迎えた大正五年、ほとんどの事業から引退し、以降の人生を社会貢献に捧げる。格差社会、福祉問題、諸外国との軋轢など現代にも通じる多くの問題に「論語と算盤」の精神で渋沢は正面から立ち向かう。
著者紹介
鹿島 茂(かしま・しげる)
1949(昭和24)年神奈川県横浜市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。共立女子大学教授を経て、明治大学国際日本学部教授。専門の19世紀のフランス文学に留まらず幅広い分野で執筆活動を行っている。91年『馬車が買いたい!』(白水社)でサントリー学芸賞、96年『子供より古書が大事と思いたい』(青土社)で講談社エッセイ賞、99年『職業別パリ風俗』(白水社)で読売文学賞、2004年『成功する読書日記』(文藝春秋)で毎日書評賞を受賞、著作は百冊を超える。
目次
第5章 すべては「民」の発展のために
東京高商の設立、利殖は二の次 ほか
第6章 民間外交でみせた手腕
アメリカで原点に返る、民間外交は膠のごとく ほか
第7章 「論語」を規範とした倫理観
田園都市の理想、女子教育への期待 ほか
第8章 近代性に貫かれた家庭人としての渋沢
もうひとりの渋沢、明治実業家の光と影 ほか
あとがき
渋沢家略系図
渋沢栄一年表
渋沢栄一関連事業一覧
人名索引
参考図書