あの戦争は
何だったのか
大人のための歴史教科書
保坂正康
本書は、私たちが忘れつつあるアジア・太平洋戦争について、平和教育としての「戦争」ではなく、歴史としての「戦争」について書かれてます。そして、日本が何故、無謀な戦争に突入し、破滅に向かって行ったのかを、中立な立場から、分かりやすくまとめてます。また、著者独自の視線や推論が興味深いです。その一つは、開戦の大きな原因は海軍にあり、従来の陸軍説に一石を投じようとしています。
本書を読むと、太平洋戦争が長引いた原因の一つが「軍部(参謀本部、軍令部などの作戦部における軍の政策や戦略を司る中枢部のこと)」にあります。
軍部関連で印象的だったのは、東条英機の発言についての記述で、「飛行機は高射砲ではなく、精神力で打ち落とす」、「”まいった”というまで日本は負けではない」という発言は彼が日本の戦争指導者でありながら、現実を冷静に見ずに、いかに精神主義に陥っていたかを物語るエピソードです。
そして、かの有名な戦陣訓(生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ:捕虜になることを拒否する考えで民間を巻き込んで集団自決につながった)と合わせて興味深い話です。
また、終戦間際まで陸軍は依然として戦争の継続を主張し、著者の指摘する当時の指導者に「戦争をいつ止めるか」という定見がなかったという指摘には唖然としました。
他に印象に残ったところは以下となります。
広島・長崎へ原爆が投下され、ポツダム宣言が受諾されます。その受諾に関する最高戦争指導会議において、当時の天皇は、冷静な立場で判断を下します。しかし、そこには軍部と曖昧な立場関係があり、天皇でさえ軍部に反対できる雰囲気ではなかった。そこを皆を諭してポツダム宣言の受諾を提言します。そこでの天皇の提言には苦悩が垣間見えます。
第五章によると東久邇宮内閣が九月の初めに議会を開き、そこで首相自ら国民に向けて戦争終結のメッセージを送る演説を行っています。その演説の草稿の段階で、陸相であった下村定が草稿の中の“敗戦”という言葉を見つけるや否や、「“敗戦”ではなくて、“終戦”としてほしい」と注文をつけてきた。その時、東久邇宮首相は、「何を言うか、“敗戦”じゃないか。“敗戦”ということを理解するところから全てが始まるんだ」と一喝します。このごにおよんでも、陸軍には東条英機の戦争観が浸透しいるのには唖然としました。
最後に日本人として、このような戦争があったこと、当時の大まかな流れと内実を知り、そして、その当時の惨禍を知り、再びこのような戦争を繰り返すことのないように肝に銘じなければと思います。
内容紹介
戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られ、記されてきた。だが、本当にその全体像を明確に捉えたものがあったといえるだろうか――。旧日本軍の構造から説き起こし、どうして戦争を始めなければならなかったのか、引き起こした“真の黒幕”とは誰だったのか、なぜ無謀な戦いを続けざるをえなかったのか、その実態を炙り出す。単純な善悪二元論を排し、「あの戦争」を歴史の中に位置づける唯一無二の試み
引用元:新潮社
著者紹介
保坂正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『五・一五事件』『あの戦争は何だったのか』『昭和の怪物 七つの謎』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。
目次
「統帥」の教え
海軍の教育機関
二年の兵役、五年の予備役
兵役免除、お目こぼし、徴兵逃れ……
「統帥権の干犯を許さない!」
戦略単位としての「師団」と「艦隊」
「大善」をなした青年将校たち
もはや誰にも止められぬ「軍部」
「北進」か「南進」か
逆転の発想「東條内閣」
真の“黒幕”の正体……
“勝利”の思想なき戦争
完全に裏をかかれた「ミッドウェー海戦」
無為無策の戦場「ガダルカナル」
誰も発しなかった「問い」
アッツ島の「玉砕」はなぜ起きたか
大本営が作った空虚な作戦「絶対国防圏」
開き直る統帥部
“とりつくろおう”とした年
無能指揮官が地獄を招いた「インパール作戦」
「あ号作戦」、サイパンの玉砕、東條の転落
軍令部の誤報が招いた“決戦”の崩壊
硫黄島、沖縄の玉砕
「例の赤ん坊が生まれた」――
阿南泣くな、朕には自信がある
太平洋戦争はいつ終ったか?
名もなき戦士たちの墓標
大東亜共栄圏、八紘一宇
軍人勅諭
大艦巨砲主義
マジック
軍神