読書案内

お薦めの本を紹介します

髙橋一生が出合った「騎士団長殺し」

 騎士団長殺し

 第一部 顕れるイデア編 
 第ニ部 遷ろうメタファー編
  村上春樹    新潮社 

 

騎士団長殺し(新潮文庫) 全4冊セット

騎士団長殺し(新潮文庫) 全4冊セット

 

 

 この小説では、絵、肖像画というものが伝えることのできる奥深さをいろいろなシーンで、さまざまな言葉を使って表現しています。画家である主人公だけでなく、免色渉、秋川まりえが『免色渉の肖像画』、『白いスバル・フォレスターの男』『秋川まりえ』の肖像画を見たとき反応する様子は、村上春樹自身が絵、肖像画というものはこういうものであって欲しいと、肖像画に寄せる想いなのではないだろうかと思いました。

 今回の小説は、過去の長編小説の素材の寄せ集めという感じがしました。村上春樹は平易な文章で読ませるという点では、非常に優れていると思います。しかしながら、今回の小説は、1回読んだだけでは、なかなか内容を理解しかねます。川上末映子・村上春樹の「みみずくは黄昏に飛びたつ」を参考に読むと内容をより深く理解できると思います。

 

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

 

内容紹介

 久しぶりの一人称(私)で、お馴染みの春樹的モーチフ(妻との別れ、謎めいた穴、いわくありげな美少女、夢精、失踪、メタファー・・・)を大量にちりばめながら象徴的なファンタジーな世界に読者を誘う。

 作中で言及される上田秋成の怪談風でもあり、謡曲とも、ジブリ風とも見える。絵画や文学はもちろん、クルマ、音楽、料理から南京大虐殺まで、とにかくネタが盛り沢山なので、合計千ページを超える物量にもかかわらず、ダレ場はほとんどない。

 今回の特徴は、”私”が妻と別居してから元の鞘に戻るまでの9カ月間の物語であることが、冒頭で宣言されること。2006年(推定)の出来事を、20011年現在から振り返る回想形式になっている。簡単に要約すれば、36歳(当時)の画家である”私”が、ある大きな試練を経て再生し、家庭を取り戻す話だと言ってもいい。

 主な舞台は小田原市郊外の山中に建つ一軒家。高名な画家である雨田具彦(あまだともひこ)のアトリエ兼住居だったその家に越してきた”私”は、そこでさまざま不思議と出会う。その出発点が、屋根裏で見つけた雨田具彦の未発表作「騎士団長殺し」と、谷をはさんで向かいの山に建つ白い邸宅に住む白髪の中年男、免色渉(めんしきわる)。話の展開は例によって自由奔放だが、前作前作とくらべて投げ放し感は比較的少なくきっちり幕が引かれる。

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騎士団長殺し」に出会う

村上春樹のすべてがここに――
英訳、仏訳も出され、海外でも大きな注目を集めている『騎士団長殺し』。だが世界中の誰よりも「これは僕の物語」だと直感したのが俳優の高橋一生さんだった。村上春樹の世界と深く静かに共振する高橋さんの魂......。

 読んでいる時、音が鳴っています。
 それが何の音なのか、昔聞いたことがある懐かしいものなのか、初めて耳にした新しい音なのか。
 読了後も、その音は止むことがなく、自分の日常に溶け込んでくるような、静かでいて、それでも芯の通った音。
 村上さんの小説からは、いつもそんな音が聞こえてくるようです。
 はじめに読んだのは、短編集『象の消滅―短篇選集1980-1991―』。その後も村上さんの作品は短編長編と読み続けてきました。どの作品もそれぞれ世界観は違いますが、根幹にはある一つのテーマのようなものがあると感じていました。それでもその一つのテーマを言語化する事はしませんでした。
 そうすることで、評論家でもない僕が分析して、良い悪いの二元的なものに落ちてしまいたくなかったのと、決めつけてしまった時点で、すくい上げた瞬間から溢れてしまう細かな機微と、わざわざ村上さんが残してくれている余白を楽しめなくなってしまうのではないかと感じていたからなのかもしれません。

 たとえば『レキシントンの幽霊』は今でも何度も読み返してしまう作品の一つです。
 読み返す度に主人公の一時的に住むことになったあの家の様子が変わっていきました。
 階下で聞こえるかすかな話し声も、緊張感も。
 自分のその時置かれている状況や、感じていることによって、主人公と、読んでいる僕の共時性が強くなったり離れたりもします。
 村上さんの作品群には、僕なりのそうした楽しみ方も見出してしまっていて、新刊が出る度にそういった体験が出来ることを期待して本屋に向かうのです。

騎士団長殺し』はそんな今までの自分の体験を、今まで通りのようでいて、まったく別のものにしてくれました。
 主人公の〈私〉は、はじめて『騎士団長殺し』を読んだ時の僕と同じ年齢の三十六歳。ゼロから何かを表現するわけではなく、肖像画家。誰かという対象に依存せざるを得ない職業。どうにも自分の職業にさせていただいているものと重なってしまいました。
 作品、台本、台詞、監督、スタッフ、共演者。どれかが欠けてしまったら、僕がいくら独りで芝居をしようとしても成立することはなく、ある作品を作ろうと思ったら、誰かや何か、対象が必要になります。重ねて、自分という存在を主張するためではなく、作品が伝えようとする何かの欠片を自分の身体を使って形にする。僕は自分の芝居を自己表現とは口が裂けても言えないですし、表現という言葉すらも出来れば使いたくはありません。そんな感覚が、『騎士団長殺し』の〈私〉の、肖像画家として生きている部分に重なってしまったのかもしれません。
 読み始めた最初のうちから〈私〉は僕でした。
 この感覚は初めてのものでした。
 今までも、村上さんの作品を読んでいくことで主人公の視点を借りることはあっても、主人公〈そのもの〉になることはありませんでした。
 当時、三十六歳の僕は地方と東京との往復で、いつものことではありますが、仕事現場に入れば参加させていただいている作品の事で心はそちらに持っていかれてしまいます。でも、その他の自分として居る時間は、ホテルに滞在する時間、新幹線移動の車内、自分の家、車の中で、他にやることもやりたいこともありましたが、どうしてもこの本を読むことが最優先に感じたのです。
〈私〉の前に〈騎士団長〉が現れたときと似たような、もしくは同じような状況で、僕にとって、自分の人生に何か示唆的なものとして『騎士団長殺し』が現れたんじゃないかと思うようになっていました。
 前述の〈私〉の設定に加えて、〈私〉が物語のはじめの方で経験する、ある喪失がそのまま僕の喪失そのもののように感じたことも、その感覚を強くしたのかもしれません。
 二度と会えなくなる死別、何があったわけではなくとも、少しずつ疎遠になっていく別れ、どうしても出てこない失せ物。他にも《離れる》《別れる》《失う》というジャンルは多く経験してきたつもりでいました。
 妻である〈ユズ〉がある日突然別れを切り出してくる。
 僕の実生活ではそんな唐突なものではありませんでしたし、〈ユズ〉にとっては唐突でないこともわかります。
 生活の積み重ねがそこにあったのだとも想像します。
 それでも、〈私〉には理解の追いつかない告白。
 僕は『騎士団長殺し』に出会う少し前に《失ってしまったもの、あるいはその時選んで失ったものが、かけがえのないものだったとわかった時には、取り返しがつかなくなっている》という、今まで経験した覚えのない喪失を経験していました。そんなあれこれも相まって、益々〈私〉は僕になっていきました。

 役を離れ、自分でいるときは漏れ無く、〈私〉と同じように、心の中ではありましたが、あてどなく車を走らせ、彷徨いました。どこをどうすればよかったのか、間違いは訂正できないのか、もう二度と戻ってこないのかもしれない。と。
「時間を私の側につけなければならない」と、〈私〉は思っていました。
 僕も、そうするほかにないと思ったのです。
 夢中で読み進めたことを覚えています。
 勝手ながら、この作品は、僕のこれまで失ったあらゆるものに対する示唆と啓示を含んでいるのだとも思いました。
 作中、騎士団長は〈私〉のことを〈諸君〉と呼称します。
 村上さんの意図からは外れるかもしれませんが、僕自身、人間は本来《葡萄の一房》と感じることが多々あります。
 生まれ落ちる時に〈諸君〉である僕らはその一房から一粒になってこの世にやってきて、いずれそこに戻っていくのだと思っている僕は、そんな感覚的なところにも引き寄せられて読み進めていきました。

 村上さんの小説では重要な要素と感じる、登場人物の服装の細やかな描写は勿論、作中の音楽として出てくるモーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」もリヒアルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」、シェリル・クロウブルース・スプリングスティーンも作品世界の奥行をより深くしていきます。
 そして村上さんの作品では度々登場する〈悪〉や〈暴力〉、〈恐怖〉の描き方も今回の『騎士団長殺し』では、僕にとってより真に迫ってきました。
〈色を免れる〉免色さんの存在性は何か言いようのない底知れなさを感じ、底知れなさで云えば、ある時から聞こえてくるようになった鈴の音も、ひたひたと何かが確実に忍び寄ってきて、今まであった現実が、多くの者が寝静まった夜に、ひっそりと塗り替えられている感覚を覚え、今まで作品で感じられた怖さを生かしたままでいて、別物になる予感もしていました。
 物語の後半〈火掻き棒だったかもしれない〉から始まる、内面への旅。
〈顔なが〉を捕まえた事から深く潜っていく穴の中での出来事も描写も、まるで僕の内面世界のように感じていました。そうして浮かび上がってきたものは《求心性》です。
 村上さんの書く物語は《求心性》を持っている。
 世界観や伝え方は違えど、登場人物の配置や物語の構成は違えど、です。

 根幹にはある一つのテーマが存在していると先述しましたが、この『騎士団長殺し』を読了後、やっと言語にすることができた気がします。それは分析でも評価でもなく、僕の答えとして自然に出て来てしまったのです。
 僕の感覚的な形容になりますが、村上さんの作品は二次元上の平面でみれば、ゆっくり、静かに、中心に向かって旋回しているように見えていました。
 平面上の一つの点に向かって。ですが、『騎士団長殺し』を読み進める内に、作品が二次元的なものから、立体として立ち上がり、そう捉えた途端、上昇、なのかあるいは掘り下がるような立体的な動きをしていると感じたのです。
騎士団長殺し』は《求心性》を伴って二次元的な動きとは違うもので展開されていました。
 村上さんのこれまでの小説は僕が思うに《失ったものは戻ってこなかった》のです。
 でも『騎士団長殺し』は《失ったものがさも自然に、はじめからそうなることが当たり前だったように戻ってくる》のです。
 この〈私〉を通しての体験は、感動的でした。
 これまでの村上さんの作品世界と同じく旋回しつつ、そこに三次元的な運動、上昇、奥に進む、手前にくる、もしくは掘り下がる立体的な動きが加わり、その上、間違ってしまった何かを変える、もしくは変えられない何かに価値を与えていく方法すらも〈私〉は導かれるようにしていると感じたのです。
 それはもう時間や空間すらも超える何かであって、三次元というものすらも超えた別次元のものでした。
 そんな複雑な動きを物語はしなやかに行いながら、至極当然のことのように、ある一点を穿った。その瞬間に立ち会ってしまったのだと、心が震えました。

 僕は、今の仕事をはじめてから同じところを叩き続けてきました。同じ《点》に同じ《当て方》をしてきました。
 多分、これからもそうすると思います。
 烏滸おこがましく受け取られるかもしれませんが、勿論村上さんと比べるつもりはありませんし、大前提として、村上さんがそこに重点を置いて書かれているかの真意もわかりません。
 でも『騎士団長殺し』が僕の目の前に現れたことをきっかけに、翻って自分に向き合ってみると、一人の人間が出来ること、その真理はそこにあるんだと思い直せました。
 つまり同じところを叩き続け、ある時穿つ。そういった感覚を持ち続けてきた僕は、この『騎士団長殺し』で大きく勇気付けられました。
 そのまま、そこを過ぎず、そこに在ること。そこに在り続けることで、ある日突然全てが違って見えてくるものなのだと、それが《本当》なのだと思い直せたのです。

〈私〉にとっての〈失ったはずのもの〉、〈ユズ〉は戻ってきました。
 僕にとっての〈失ったはずのもの〉、は未だ戻ってきていません。
 それでも、『騎士団長殺し』は僕にとっての預言書であることは間違いありません。
 なぜなら、上述した、同じところを叩き続けることを再認識し、大切だと思い直していなければ、あの時の僕には、自分の仕事をし続けることへの道の先に、うっすらと行き止まりの標識が見えていたからなのです。そこに向かう道のりを変更することは難しく、その行き止まりの標識は僕にとって、ほぼ《無》を意味していました。
 それなのに、今はそこに向かうことに希望を感じます。
 行き止まりに到着しても、穿つ、または作中の言葉を借りれば、大きな岩の背後に隠された横穴が見つかるという確信があるのです。
 なぜあの頃の《僕》に『騎士団長殺し』が現れたのか、その確信だけで充分に《意味》を見出せたからです。
 今この瞬間も、村上さんが紡いできた静かな力が僕の背中にそっと手を添えてくれています。

(たかはし・いっせい 俳優)
波 2019年3月号より

著者紹介

村上春樹(むらかみ・はるき)

1949(昭和24)年、京都市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1979年『風の歌を聴け』(群像新人文学賞)でデビュー。主な長編小説に、『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞)、『ノルウェイの森』、『国境の南、太陽の西』、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』、『1Q84』(毎日出版文化賞)、『騎士団長殺し』がある。『神の子どもたちはみな踊る』、『東京奇譚集』などの短編小説集、エッセイ集、紀行文、翻訳書など著書多数。海外での文学賞受賞も多く、2006(平成18)年フランツ・カフカ賞フランク・オコナー国際短編賞、2009年エルサレム賞、2011年カタルーニャ国際賞、2016年ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞を受賞。

目次

第一部 顕れるイデア

プロローグ

1 もし表面が曇っているようであれば

2 みんな月に行ってしまうかもしれない

3 ただの物理的反射にすぎない

4 遠くから見ればおおかたのものごとは美しく見える

5 息もこときれ、手足も冷たい

 その他  

 

第二部 遷ろうメタファー編

33 目に見えないものと同じくらい、目に見えるものが好きだ

34 そういえば最近、空気圧を測ったことがなっかた

35 あの場所はそのままにしておく方がよっかた

36 試合のルールについてぜんぜん語り合わないこと

37 どんなものごとにも明るい側面がある

 その他

 

関連サイト

 村上春樹騎士団長殺し―第1部 顕れるイデア編―』 | 新潮社

https://www.shinchosha.co.jp/book/353432/その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。